F-4D of Mig-Killer (66-0240)
1972/12/22
Mig-21

↑ 1972年タイのウドンに派遣され 555th TFSの傘下で1972年北ベトナム上空でMig-21を撃墜している。嘉手納の18th TFWで使用された後は、ホームステッド空軍基地の31st TFWで使われ 最後は、バーモント州のバーリントン飛行場に撃墜マークを書き込んで展示された。

ZZ-240 (66-0240)

↑ この機体もタイのウドンで555thTFSの所属だった、ベトナム戦を生き残り嘉手納に配備された。最後は、カンサス州空軍を最後に1990年廃棄された。

ZZ-459 (66-7459)
ZZ-785 (65-0785)
F-4D (66-7463) Left-Side Mig-Killer Mark

文献によれば、1979年まで機体左側のインテークベーンにしか書かれていなかった撃墜マークが、1980年には左右両側に書かれたとの事。

ZZ-537 (66-7537)
真珠湾攻撃を題材とした映画は多い。最近では2001年公開の「パールハーバー」が有名だが、かなり以前の映画で特に制作費をかけた作品に1970年公開の「トラ・トラ・トラ!」がある。映画「パールハ−バー」では、零戦を迎撃しバタバタと落して行ったP-40の活躍がハイライトであったが、あれはアメリカ人向けに受けを狙った虚構である・・本当は空対空戦闘の戦果は少なく、P-40は地上でほぼ全滅している。映画「トラ・トラ・トラ!」では、そこの所をほぼ忠実に再現した為、反ってアメリカでは全く人気のない映画になってしまった。やはりアメリカでは、嘘でもヒーローを活躍させない事にはウケないのよね・・

 P-40を多数持ちながら ハワイのホイラー飛行場でほぼ全滅の憂き目を見たのが 第18追撃航空群の傘下に有ったこの44飛行隊でだった。後にカネオヘに移動して第44戦闘機中隊と改称され、P-38ライトニング戦闘機を受領して、ガダルカナル方面では活躍している。130機以上の日本軍機を撃破して、最優秀飛行隊の表彰も受けている。また第18戦闘航空群の同僚第70戦闘機中隊は、山本五十六元帥機の撃墜を遂行し初戦の恨みを晴らした形となった。
(2002/7/24 記)
ZZ-684 (67-0684)

↑ インテークベーンに”CHECK SIX”のマークが書かれている。

F-4D of Mig-Killer (66-0267)
1972/9/9 Mig-19
1972/9/9 Mig-19

↑ 1972年9月9日の1日に2機のMig-19を北ベトナム,ハノイ西上空で落した機体で、パイロットは555th TFSのチャールズ・デブルーブ大尉とWSOジョン・マッデン大尉のペア。コールサインは、”Olds 01”でAIM-9サイドワインダーでの成果である。F-4Dの方は、18th TFWで使われた後ホームステッド空軍基地に送られたが、1992年にフロリダを襲った大型台風アンドリューの為に基地で破壊されている。

ZZ-267 (66-0267)
ZZ-463 (66-7463)
恐らくアメリカ空軍のファントムで最も有名な機体であろう。このF-4D (66-7463)は、ベトナムで6機のもMigを撃墜している。パイロットは、1〜2機目と最後の6機目は異なる士官によるが、3機目から5機目まではベトナム戦でエースの称号を獲得したステーブ・リッチ−大尉(撃墜5機)が、この機体で成し遂げたものである。
 この66-7463号機の最初の撃墜記録は、1972年3月1日にMig-21。2機目は、1972年5月8日のMig-19。二日後の5月10日に3機目もMig-21。4機目は、5月31日にMig-21、何と1月に3機ものMig戦闘機をこの機体で落としている。5機目は8月28日のMig-21。 6機目は10月15日のMig-21である。お分かりの通り1972年の3月から10月までの短い間に記録されている。こんなラッキーな機体は無いだろう! この機体、18th TFWを去った後は本国のホームステッド空軍基地の31st TFWの所属になり、現在は引退してコロラドスプリングスの空軍士官学校に校内に展示されている。最初の撃墜を記録した当時のテールレター”OY-463"を誇らしげに書き込んであるそうだ。
F-4D of Mig-Killer (66-7463)
WWU後はP-51ムスタングを受領して、フィリピンのクラークABに配属されたが、装備機をP-80/F-86Fと更新し、1954年12月から沖縄の嘉手納基地に移動した。PACAFで最初にF-105を受領した18th TFWは、その後ベトナム戦に参加、この44th TFSも損耗が激しく、部隊は残存機と共にコラートの388th TFWに吸収される。漸く元の18th TFWに戻ったのは F-4を受領した1970年の10月でその後現在まで67th TFSと共に 嘉手納が長い飛行隊である。バンパイヤの不気味なマークは、嘉手納のF-4部隊の代表格として目立った存在だった。

↑ 嘉手納で飛行訓練するF-4Dの翼下の装備は、370ガロン燃料タンク2本と爆撃訓練用のBDU-33訓練弾を収納できるSUU-20ディスペンサー、それに20mバルカン砲ポッドと言う形が多かった。

↑ 上写真2枚ともにF-4D ブロック29の古い型であるが、ZZ-785は、1978年5月に嘉手納沖で墜落して失われている。

↑ 前輪の左手に見えるのが、電子戦ポッドAN/ALQ-119で、ベトナム戦でソ連製のSAM(地対空ミサイル)の脅威のさらされた経験から開発され、SAMへの電子妨害を行って時機を守るのに用いた。ベトナム戦後期には出撃の際、これを付けるのと付けないのでは生存率が大きく変わったと言われる。初期のタイプは、SA-2 SA-3などのソ連製ミサイルに対応したが、ミサイル側の進歩とともに改造が加えられ 現在でも使われる。

↑ 44th TFSは、ベトナム戦でF-105Dを使って戦っていたが、機体の消耗と損失が大きくなって部隊は解散となった。1975年に嘉手納基地でF-4Cファントム戦闘機の部隊として再編制されて復活、この頃は、テールレターは”ZL”で、尾翼のチップはインシグニアから取ったK赤の2色のストライプであった。

Mig-19x1
Mig-21x5
F-4D of Mig-Killer (66-7468)
1973/1/8
Mig-21

↑ ZZ-796もミグキラーで1973年1月8日 ポール・ホーマン大尉とローレンス・クールマン中尉のペアがルートパックVという哨戒エリアで上げた戦果ある。彼らのコールサインは、”Red Crown"、アメリカ空軍がベトナムで最後に撃墜したMig-21と言われ 両者ともにシルバースター勲章を受章している。機体は、後にテキサス州のダイエス記念校に飾られている。

18th TFWの所属機は、その多くが激しいベトナム戦を戦い抜いてきたものであり、その中には”Mig-Killer”(Mig戦闘機 撃墜記録機)が多数含まれていた。ZZ-463(66-7463)のように 1機で6機のMig戦闘機撃墜履歴を持つ機体もあった。この”特別機”を除いては殆どMig-Killer マークを機体に書き込んでいるF-4はなかったが、後にアメリカ本国に戻り、州空軍や予備役飛行隊に配属になってからは 撃墜マークを入れて機体に敬意を示すことが多かったようだ。Mig-Killer機は、18th TFWの中では この44th TFSと25th TFSに結構含まれていた。
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↑ 尾翼のチップが黒赤ストライプから青に変わったのが、1975年の冬頃である。1975年には、44th TFSはF-4C型からD型への機種変更も行い、余剰となったC型を67th TFSに一部移管し、残りは本国の州空軍等に送っている。本イラストでは翼下に370ガロンタンクとSUU-20ディスペンサーを付けた形とした。

ZZ-239 (66-0239)

↑ F-4D ZZ-239は、18th TFWがF-15Cに改編した後、カンサス、ミネソタ州空軍と移動し 韓国空軍へ売却されたそうである。

F-4D of Mig-Killer (66-7468)
1972/12/18
Mig-21

↑ 1972年12月に北ベトナム上空でMig-21を撃墜しているファントムで、ZZ-463同様、嘉手納からフロリダのホームステッドへ移動して 1987年まで31st TFWで使われた。

ZZ-596 (66-7596)
ZZ-705 (66-8705)
ZZ-783 (65-0783)
ZZ-798 (66-0798)